カラマーゾフの兄弟(9)

カラマーゾフ家の騒動はまだ波乱を含みながら大きな変化はなく、第6編は死の縁におられるゾシマ長老のことを主に書かれています。
  第6編 ロシアの修道僧
   1 ゾシマ長老とその客たち
   2 神に召された修道苦行司祭ゾシマ長老の1代記より
   3 ゾシマ長老の談話と説教より

カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫)

カラマーゾフの兄弟2 (光文社古典新訳文庫)

目次は、上の様になっています。
ここを読んで一番気になることは、アリョーシャの敬愛するゾシマ長老は、どんな方なのだろう、ということです。慈愛にみちた高徳の人だと文中の紹介がありますが、もっとじっくり知りたいと思いながら読んでいました。


ゾシマ長老の若い時ある女性に恋をするのですが、その女性が後に他の人と結婚したことを知り、「決闘」へと話が進むのです。そんな血の気の多い時代もあるのですが、その「決闘」をその土壇場になって自分から相手に侘びをいれ、止めるのです。・・・・自分のばかさかげんを悔い、公衆の前で自分の罪を認める。・・・という場面があります。
“傲慢を捨てよ”という長老がよく言われる言葉があります。なぜなら、人間はだれでも、すべての人に対して罪があるんだよと。
『人間の原罪』ということがよくキリスト教の書物を読むと書かれていますが、そういうことがこの第6編でもよく出てきます。ゾシマ長老は若い時そのことに気づき生き方を変えられ、修道院への道を志します。


心を動かされたところを書き出してみます。「決闘」を取りやめた後、その事に興味を持った「謎の訪問客」との出会いの場面で語られた文です。

訪問客の話したことに時代を経た現代にも通じる何かがあるような気がしました。
>「いま、とくにこの十九世紀になって、世界のいたるところに君臨している孤立ですよ。ですが、孤立の時代はまだ終っていませんし、その時期も来ておりません。というのは、いまでは猫も杓子も自分をできるだけ目だたせることに夢中ですし、人生の充実を自分一人でも味わいたいと願っているからです。ところが、そうしたもろもろの努力の結果生まれてくるのは、まぎれもない自己喪失なのです。それというのも、自分の存在をはっきり際立たせてくれる人生の充実のかわりに、完全な孤立におちいっているからです。なにしろこの十九世紀においては、何もかもが細かい単位に分かれてしまい、すべての人が自分の穴に閉じこもり、他人から遠ざかり、自分自身を、自分が持っているものを隠し、ついには自分から人々に背を向け、自分から人々を遠ざける結果になっているからです。・・・・・(P.409)」


「・・・・・たとえ一人でも人間はあえて手本をしめし、魂を、孤立から、兄弟愛による一体化というヒロイックな営みへ、導いていかなくてはいけません。・・・・(P.410)


ゾシマ長老のことはまだまだよくわかりませんが、愛する愛弟子アリョーシャに託された思いなどにも注目して読んでいきたいと思います。