『近代絵画』を読んで

 パソコンの近くには読みかけの本が色々並んでいます。一気に読めばいいものを、気のむいた本を手に取るというのが、近頃の読書法になっています。
 きょうは、昨年の暮れに梅田さんが、[ぼろぼろになるまで読んだ4冊の本](2006-12-28)としてブログに載せておられた本の中からの1冊を読みました。

 『近代絵画』(小林秀雄著)です。
絵画についての評論文をいままでほとんど読んだことがなかったのですが、美術館や画集などで見た事のある絵を描かれた有名な画家の事を書かれているようなので借りて見ました。「難しそう」と、手にした時は思いましたが、読み始めると興味深い内容でした。
 8人の画家(ボードレール・モネ・セザンヌゴッホ・ゴーガン・ルノアールドガピカソ)をそれぞれ書いてありますので、なじみのある『ゴッホ』の評論から読みました。
 ゴッホの絵は、広島の美術館でも何度か特別展などで見る機会がありましたが、印象深いのは“ひまわりの絵”です。本文(p・97)ですが、
ゴッホが、大色彩画家として現れるのは、アルル以後の制作によってである。・・・・
そのアルルで描かれた、「ひまわり」 かと思います。
小林秀雄さんの言葉が、ゴッホの心情をたたみこむように、伝えておられる気がしました。
>彼は、「これは死ぬか生きるかの努力」だったと言っている。「恋愛するものの慧眼と盲目とで」「機関車」の様に働くと書いている。
・・・(ゴッホの絵を描いている様子が、目に浮かぶような文章です。)

また、ゴッホとゴーガンとの関係を、ヴェルレーヌとランボウの関係と並べて論じておられたりして、話の内容が深く、広がって行きます。


もうひとつ、書き残そうと思ったことに、
>彼は、すでに、恋愛にも美術商にも語学教師にも失敗していた。・・・・
   
(こういう情況の時に)
>彼を一番苦しめたものは、彼の言葉で言えば、「深い真面目な愛」が、今度は何処に出口をみつければいいのかという事であった。

ふと、日本の昔話、「赤鬼と青鬼」(☆正しくは、『泣いた赤鬼』)を思い出しました。赤鬼は人間の世界の友達を作りたいと思っていた。それを知った青鬼は、わざと自分は悪役を買って出ます。
それを懲らしめた赤鬼は、人間世界で友達が出来るのですが。(ちょっと、せつない昔話なのです)
(ここからは、わたしのかってなそうぞうですが。)ゴッホに、もし“青鬼”の役割をする人が居たとしたら。炭鉱での説教師の職を取り上げられず、追放もされずにすんだかもしれない。
現実は、ゴッホは、友達も作れず、どれほどの『孤独』だろうかと思いました。


 「では、あなたは、ゴッホの絵を好きか」と聞かれると、私は少し考えてしまうのですが、ゴッホの人生は感動するというか、強烈な印象を心に残します。

 感想がまとまりませんが、以前読んだ児童書(ゴッホの伝記)とはまた一段と、大人の深み、解釈も加わり、興味深く読めました。